Webや情報技術が人類の歴史にもたらした意義について

久しぶりにいろいろと考え事をするに至ったので綴る。
ずっと考え続けているWebや情報技術が人類の歴史にもたらした意義について。
というのも5年くらい前に考え続けていたことを思い出させてもらえるような人に仮想的に再会できたというキッカケがあり。けっこうリアル涙目レベルに嬉しい。。。

Webが人類の歴史に与えた最たる影響ってけっこう一言で表せるなと思ってて。
それは、
「文化など社会的なもののライフスパンが、個々の生命としての人間のライフスパンより短くなった」ということだなって思ってて。
で、これって実は人類の歴史上初の状況だなって思っています。

生まれた時に準拠している社会集団の文化に順応してしまえば、わざわざ個人としての自己のあり方を根源的に覆す必要なく生を全う出来たという前提がまかり通っていたのが最近までだったけど、
それらが根本的に覆った状況が生まれたなっていうのは実はWebが普及してきたこの20年くらいだったりするなと(もちろん革命や戦争によって文化摩擦は常に起こってるから、結局歴史上誰も一つの文化集団に安住して生きて来れたやつなんかいねーよって言われたら、確かにそうかもって思う訳ですが)。

で、じゃあそういう状況を作ったWebが作り出した根本的な要因って何なの?ってことを考えると実はそれは二つに集約されると思っていて、
・不可視だった情報が可視化されやすい状況が作られた(言いたければロングテールとか呼べばよいけど)
・可視化された情報が圧倒的なスピードで流通するようになった(コミュニケーションスピードが上がったと言っても良いし、言いたければコモンズの発想とかで呼んでもよいけど。というかコモンズとか呼ぶ人と視座は圧倒的に違うところから書いたけど、実は指してるのはほぼ一緒のことだと思ってる。リソースを圧倒的になめらかに流通させられると、それって共有してると呼べるでしょ的な話で)
の二点じゃないかなってずっと思ってたりする。
(ビッグデータとかも二点目をより効率よくするための方法論でしょ的なノリで、もっとシンプルに可視化する価値のあるものってたくさんあると思うから、方法論にかまけて大事なこと忘れないようにしたい)

黎明期のECなんて、リアルな情報をWebで可視化して高速に流通させただけだし、
最近のCtoCとかでもAirbnbとかUberとかでも、不可視だったリソースを可視化して高速で流通させていて、
もちろんクラウドソーシングなんて言うまでもなく、不可視で取り扱えなかったリソースを可視化して高速流通させていて、
あとなんだろ、Storys.jpとかもある種個々人の経験とかエピソードのような不可視リソースだったものを可視化した上で流通させている訳だったりするなと思ったりしてる。

で、ある程度Webが成熟してくるにつれて、
リソース化が想像しやすいものはもはやリソース化するのが大変になってきているし、
単純にリソースとして想像され辛いものは、「こういう風に見たら価値があるよね」っていう広義のUXとか体験含みで提供されないと、価値として人に提供しづらくなってきてる。

こう考えると逆に価値があるものってなんなの?って話はすげー簡単で、
「不可視だったものを可視化して、そして流通できるようにして、それだけじゃ価値を伝えられないから独特の体験を付加して価値を伝えやすくしようぜ」
っていう三つのポイントを押さえればよいってことになる。
こういうことって抽象的に考えても意味がないからあれだけど、本質としてはそんなに外してないと思う。

で、ここから具体を考えるプロセスは持論だし人によって思考プロセスは違う気がするけど、
二つの意味での「どこ」を考えると結構具体化って簡単な気がしてる。
一つ目は、物理空間的な意味での「どこ」で、可視化したいものがどこにあってそれをどこに流通させたくてどこの人に伝えたいのかってことで、日本でとかアジアでとかアメリカでとかの思考になるのかなって思う。
二つ目は、意味空間的な意味での「どこ」で、不動産情報というものなのかアプリ情報というものなのか泊まる場所ということなのか知識なのか労働力なのかみたいな、どのような意味での「どこ」みたいな。

なんかマーケティングかなんかのポジショニング論みたいな話持ってきたらそれでオールOK、みたいな話になってきてる気がしてきたけど、まぁ別にそれ専門じゃないし今日なんか考え事する上では自己満で良いからこれで良いや。
いずれにせよ僕がやりたいことの「どこ」は、物理的にも意味的にもとりあえず決めてる。

ともあれ、話が元の方に戻って、Webが人類史に与えた歴史的に初めてのインパクトの話はけっこう本気でそう信じていて。
もし本当にそう言えるのであれば、今って歴史上結構想像だにできない程の地殻変動まっただ中で未来なんてどんなに妄想しても妄想しきれませんなレベルだと思うし、
文化や社会を静的なものと捉えられない実情が生まれているが故に、静的な意味での社会契約論ではない動的な社会契約論みたいな話にリアリティを感じるし(鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』とかは読んでないけどそういう内容のはず。そもそもPICSYとかって同様の思考プロセスを踏む実験経済学的構想だったはずだし)、
妄想しきれない未来社会の理念型を描ききることよりは、動的な変化をベースに社会を記述する方法論となりえる(ように見えた)ニクラスルーマンの「社会システム理論」なんてものを研究対象にしてたんだなぁとかいろいろと懐かしい。

そんなこんなで、
短距離走が得意な人と長距離走が得意な人がいるのと同じで、
数年から数十年のタイムスパンが得意な人と、数百年とか数千年のタイムスパンが得意な人が居るなと。
僕は後者であること半端ない。

とはいえ、『なめらかな社会とその敵』という著書で数百年先の可能なる民主主義の一理念型を描きながら、
IPA未踏の天才プログラマに選出されるようなプログラマでもあり、
しかもSmartNewsの取締役も務めているような鈴木健さんとかは本当に超人だなって思う。
数百年のタイムスパンを持ちながら、数年後を見据えた思考を行い、それをプロダクトに落とせる。
本当に歴史を次を導ける能力を持ってる人っていうのは最低でそのレベルだなって思うので、
僕の存在価値はどこにあるねんって思って、急にネガティブになりました。

4時や。どこまでいっても社会の側から思考するクセ抜けないなぁ。
あとこれ明日になったら結局後悔するパターンの文章だわ。。

【TED】ビル・ゲイツ「教師へのフィードバックでもたらせる変化」

私的要約:

 教師という仕事には、その仕事の良し悪しへのフィードバックと、ベストプラクティス的なものを見聞きする機会がまったくと言って良い程存在しない。
 しかし、例えば授業を録画して見直すことなどにより、自身の授業内容や方法への反省を行ったり、良い授業方法とは何かを体系化していくことはできる。
 そのような手段を実際に講じるために、ゲイツ財団の見積もりでは50億ドルの費用が必要だと見積もっているが、実はこれは教師へ支払われる給与総額の2%に満たない額でしかないため、莫大な額という訳ではない。
 ゲイツ財団ではすべての教室がこのようであることを目指している。

私的感想:

 これは日本の事例にあてはめてもそうだろうと思う。
 教師が自身の授業を映像として見直す環境はないだろうし、教師同士のピアレビュー環境が存在するのは教育実習の時くらいだろう。
 具体的な方法論としてゲイツ財団のやり方がどうであれ、教師毎の教育内容と教育方法、総じての教育効果の検証と同時に保証は本来あってしかるべきであろう。
 それは教育をサービスとして捉えるからという理由ではなく、少なくとも初中等レベルの教育が義務教育であり平等性を根本的に担保する必要があるという理由からに他ならない。
 教師自身が行う授業の録画によるフィードバック、教師同士のピアレビュー、模範的な教育・授業戦略を体系的に織り込んだベストプラクティスのパターンなど、教師に対するフィードバックシステムの構築がもたらす教育活動への影響は疑うべくもないだろう。

 教育心理学とか学習心理学の研究の中にも、学習者の学習効果を指標とした研究のみならず、教師の教育方法の向上効果を検証指標とする研究はもっとあっても良いと感じた。少なからずありそうだけれども、機会があればチェックしてみたい。

【TED】セルゲイ・ブリン「なぜグーグル・グラスなのか?」

私的要約:

 セルゲイブリンが率いるGoogleグラスチームは、スマートフォンの画面へ視線を落として注視するあり方が、今後のコミュニケーションのあり方として続いて行くものか常に疑問に思っており、それがGoogleグラスプロジェクトのきっかけだったと言う。
 そして、Googleグラスはこれまでのデバイス利用のようにデバイスへ常に注意を向けるあり方ではなく、よりユーザに自由な情報との付き合い方を可能にするものだと主張している。

私的感想:

 よく、携帯が出てきた頃に、社会学的な観点から、「公共空間に親密圏が入れ子状態になっている」という指摘があったと思う。
 それはどういうことかと言うと、友人と口と耳を仮想的に近づけあって会話するという親密な状態が、電車の中や街中という公共空間において可能になったということを指摘していた。また、電話による対話が、通常の対面的状況の対話よりも親密度が高くなるという統計的調査もあったように思う。

 そのような状況の中、スマートフォンの普及によって、「公共空間を個室化」する利用方法が卓越してきたという状況があった。それは現在進むタブレット端末の市場競争の激化の中でも増す増す進んでいる状況であろう。
(早稲田大学の社会学部准教授土橋臣吾さんなどは、女子高生の携帯利用の参与観察などで同様のことを指摘していたと思う)

 このトークでブリンは、Googleグラスは、常に画面を注視する必要がなくより自由な状況を作ることができると指摘している。
デモの映像から受ける印象もそのようなものだ。

 ともあれ、Googleグラスのようなデバイスは、個人と社会とのインターフェイスとして、社会の中に個室を作る形で社会との隔絶を推進してきたこれまでのデバイス進化のベクトルを変えるものであるのだろうか?

 その点に着目しながらこのような新技術が社会にどのような影響を与えるか考察して行きたい。
 現状では、社会に個室を作ってきたこれまでのデバイス進化のベクトルを変えてくれるものとして、期待感を持っているというのが個人的な印象である。

【TED】ジェームズ・B・グラットフェルダー 「世界をコントロールしているのは誰か?」

私的要約:

 今回も要約は割愛。感想内で充分話の内容へ要約的に記述していると思われます。

感想:

 「複雑系」の研究者と聞くと、自身も遠からぬ理論体系出自であるため、特別な感慨を覚えざるを得ない。「創発」などといったキーワードは、「社会システム理論」や「オートポイエーシス」といった理論を背景に持っている私にすれば、まさにホームグラウンドになるはずであった(今は会社員をしています)。

 しかし、著者のネットワーク分析、複雑系的な観点からの経済分析の結果は非常に興味深いものだ。

 第一点目に、多国籍企業の支配力は0.1%の株主に非常に偏っており、さらにその1割以下に多国籍企業全体の40%を支配可能な支配力が固まっていると分析できるということ。
 第二点目に、そのような支配力の偏りは、集中した支配力の中にある種のバグが生じた時の影響力が大きいことを示しており、リスクの高い経済システムであるということが示唆できるということ。

 二点目については、バグが生じた際のリスクは確かに大きいが、その際に生じうる「システム」そのものの自己組織的な再組織化がどのように働くか次第で、かなりの揺らぎが生じると思うので、想定される一般的なリスクよりは結局低い影響に留まると思うというのが私見なので、そこまで意識する必要はないように思える。

 しかし一つの観点から提示された分析でしかないのだが、第一点目の指摘のように、そこまで偏りがあるように分析されうる現在の(分析対象を多国籍企業に絞ったとはいえ)経済システムは、世界全体としてそれが平等や公平と呼ばれるものでは全くなく、市場の自由によって価格均衡が実現されるような世界ではないことを端的に示してはいるだろう。もちろん、世界が平等や公平であるべき、などという陳腐な固定観念を排しても、偏りがあるという事実は知っておく価値がある。

 要するに、一部のエリートの(ある程度)意のままに操られるのが世界の実情ではないか、というようなありきたりな疑問を確信に変えてくれる力のある分析結果のように思える。
 もちろん話者の言うように、それは「システム」の「創発」現象としてシミュレートできたため、フリーメーソンなどのような陰謀論が真実であるということを意味している訳ではないが。

 ともあれ、非常に面白い分析結果だなぁと思いました。

参考

元になっている論文
The Network of Global Corporate Control

リンク

私的要約:

カナダのタールタン族やブリティッシュインディアン族にとって神聖なる地とされる地域の環境保護の話である。
そこは豊かな資源地として様々な企業による開発計画が興っているのだが、そこにある自然の神秘性やそもそもの豊かさから、そこを保護したいというのが話者の主張である。

感想:

いや、単純にまじすごい景観過ぎてめっちゃ見に行ってみたいというのが第一印象で、カヌーかなんかで河をのぼっていけるらしい。すごいいってみたい。
話のメインはよくある話っちゃ話で。開発と環境保護のトレードオフの話。
開発を論じることも人類レベルで重要な問題やし、環境保護を論じるのも同様に重要な話やけど、
前者は経済的な話であり、後者は道義的(CO2のように排出量がビジネスイシューにならない限り)な問題系となるから、そこの議論はいつも難しいなぁと思う。系が違う問題は適切な翻訳ができないと議論が成立し得ないから。
さらに言えば、現地の原住民から言えば信仰、つまりは宗教の話にもなる。

いずれにせよ先進各国には2030年までにクリーンエネルギー率をどこまで引き上げるかについての目標が設定されていたはずやし、そっち側の努力でなんとか環境保全側に傾けられないものか。いや、ここで私がそう言うのは、行ってみたいって理由からだけやねんけども。

【TED】スガタ・ミトラ「クラウド上に学校を」

私的要約:

 話者の願いは一言でいえば、「未来の学習をデザインすること」という話者自身の言葉によって表現されていた。
 彼は実験的に、インドの誰もコンピュータの使い方など知らない路肩にコンピュータを設置し、それを利用して子どもたちが自発的な学習を行うことを幾度にも渡って実証してきた。それは、英語すらわからない子どもたちが英語でしか使えないコンピュータを利用できるようになるまでから、ゲノムの構造についての学習に至るまで、である。
 また、その自発的学習には「励まし」が有効であり、それだけで学習効果が圧倒的に向上するということもわかった。
 近代社会は官僚機構という巨大マシーンを構築し、それに当てはまる置き換え可能なパーツとして個人を構築してきているが、これからの社会は自由で自発的な在り方が求められ、社会のサブパーツのような個人が求められる訳ではない。
 だからこそ彼は、未来の学習を新たな形でデザインしたい。そのためのデータ収集をしてきているし、それを推進するためSOLEというクラウド型学校も構築してきている。
 だから、そのモデルをみなさんにも試して欲しく、それら実際のデータから未来の新たな学習の形態をデザインしたい。
 それが彼の望みであり、試みである。

感想:

 マジでまさにこういうことを自分は卒論でも修論でも描きたかったという内容で、彼は実践者であり、私は理論的素描をしようとしたといったところだろう。
 あと、トークの面白さというかウィットな感じは半端ないなぁ。
 というより何より、こういった実験を教育学者出自ではないであろう彼がやっているというのも皮肉なものである。
 とはいえ、まさに社会が変わって行くことと教育が変わって行くことはある種両輪であるかのように連動していないといけないことだけは真理である。教育は全く変われて来ていないように思うけれど。

 私自身は社会の変化がいかなるものであり、その空間編成と時間編成がどのようなものになるかについてある程度予見を立て、それとの関連において総合的に教育をいかにプロジェクトして行くかをデザインしたいと思っている。
 だから卒論においては、都市という空間編成内において、近代的な計画的教育がどのように位置付け得るかを論じようとした。
 修士論文においては、情報化によって仮想的に拡張された社会空間において、近代的教育がどのように位置付け得るかを論じようとした。
 そして、その双方に共通するものは、計画された教育ではなく学習の環境の構築に対してしか、もはや我々が教育と呼ばれる営為に計画的にコミットできることはないのではないか?という結論であった。換言すれば場の提供やルールのアウトラインの提供までを行うことしかできず、その上で自由な発達に任せることしかできない、が、その放任こそがむしろ近代が本当にはなし得なかった自発的で自由な個人を作り出す逆説的可能性を持っているのではないか?と。(私は行動経済学などにも興味があるが、この辺りの言葉から行動経済学的だと想起された方も多いだろう)。

 ともあれ、私自身が理論的に考えていた一つの実践形態が既に20年近くも前から存在したことに驚きを感じつつ、この大いなる可能性に私も何かの形でコミットしたいものだなぁと感じた。
 私の場合、都市空間の設計などともセットでこのようなクラウド型学校をいかに位置付けるかも面白そうなどとも思うけれど、まずは彼が記述しているであろう論文や実験結果をあたることから始めたい。

 なんにせよ、いやーすごいなー、可能性あるなー、って思った。

【三島由紀夫】「果たし得ていない約束 — 私の中の二十五年」 /9-10 paragraph

 個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。
 肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てたことがなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル風にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、「万葉集」でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。

 三島由紀夫の「果し得ていない約束」と言えば、最終パラグラフの「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。……」以降が有名であろうが、上記引用箇所も非常に惹かれる部分であるように思う。
 「肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合」という箇所など、まさに面白い企てであったのだなと、強く思わされる部分であると同時に、なんとなく三島の作品を想起させるに足る含みを持っている。

 僕はこの部分の解釈には、時間性を変数として与えると以下のように考えられると思う。
 「肉体のはかなさと文学の強靭」においては、長い時間性をベースに解釈すれば、文学の時間を超えた存在可能性の強靭さとして、肉体の時間的な脆弱性、ひいては死に至り得るというはかなさとして、それぞれ解釈することができる。
 「文学のほのかさと肉体の剛毅」においては、即時・即物的な時間性をベースに解釈すれば、文学の伝達力は読者任せであるが故にほのかなものであるとして、他方で肉体的な交わりは直接的であるが故に剛毅なるものとして、それぞれ解釈することができる。

 個人的には、これらの文学と肉体の乖離を結合した一つの芸術が、(ライブに限定される)音楽であると思うのだが、現在は三島の音楽観や音楽遍歴について知っていないので、あまり論じることができない。音楽がある種そういった結合を体現している芸術であったとして、「作る者と作られる者との乖離」と三島が指摘する部分は乗り越えられえないのだが、とはいえ音楽とはリズムという共時間的肉体性と、文学的な精神性の表象としての旋律やメロディが融合したものであるように思える。

 ともあれ、辞世の句であったとも言われる三島の「果し得ていない約束」のこの部分から想定しうる上記のような解釈を仮説として持ちながら、三島の小説を読み返していきたいと思う。併せて、三島の音楽観についても知って行きたい。

【TED】スチュアート・ブランド: 絶滅種再生の夜明けとそれが意味すること

私的要約:

今回は割愛。感想の方でトークの概ねの趣旨もご理解頂けるものと考えます。

感想:

これは正直微妙な話題やなぁ。

ゲノムの塩基配列をすべて修復し、そこからクローン技術を利用して絶滅種を復活させることができるという、それほどまでの技術を人間がほぼ手中にしているという現状についてまず驚きを持って認識した。本当にそれがすぐそこまでの可能性として考えうる所まで来ているんだなと。

とはいえ、では、そういった復活を人為的に行うことにどこまで手放しで賛成することができるのか。
クリスが最後に質問でそれについて尋ねていたが、それへの話者の応答は特に納得いくものではなかっただろう。
「過去に人間の介入によって壊された生態系の回復だ」という理屈だけでは、当然納得はいかない(もちろん本気の応答が許される時間があれば、相当膨大な応答可能な考察があるだろう)。

とはいえ、いずれにしても、人間が陥りがちな人間を生態系の外部と見なす視座に立っていなければ、話者が推し進める再生プロジェクトは是認し得ない。
そもそもその視座に立つということをどこまで私たちは是認しうるのか。その検証には多大なる歴史的事実の検証が少なくとも必要だろう。
可能であれば、その部分に関する話者の更なる話を聞きたい。

生命倫理などを専門とする倫理学者の展開する一般論と、その議論にどのようなものがあるのかを、補論として押さえていかないと、何一つ踏み込んだ感想を述べる権利すら得られないなぁ。