月別アーカイブ: 2013年7月

【TED】スガタ・ミトラ「クラウド上に学校を」

私的要約:

 話者の願いは一言でいえば、「未来の学習をデザインすること」という話者自身の言葉によって表現されていた。
 彼は実験的に、インドの誰もコンピュータの使い方など知らない路肩にコンピュータを設置し、それを利用して子どもたちが自発的な学習を行うことを幾度にも渡って実証してきた。それは、英語すらわからない子どもたちが英語でしか使えないコンピュータを利用できるようになるまでから、ゲノムの構造についての学習に至るまで、である。
 また、その自発的学習には「励まし」が有効であり、それだけで学習効果が圧倒的に向上するということもわかった。
 近代社会は官僚機構という巨大マシーンを構築し、それに当てはまる置き換え可能なパーツとして個人を構築してきているが、これからの社会は自由で自発的な在り方が求められ、社会のサブパーツのような個人が求められる訳ではない。
 だからこそ彼は、未来の学習を新たな形でデザインしたい。そのためのデータ収集をしてきているし、それを推進するためSOLEというクラウド型学校も構築してきている。
 だから、そのモデルをみなさんにも試して欲しく、それら実際のデータから未来の新たな学習の形態をデザインしたい。
 それが彼の望みであり、試みである。

感想:

 マジでまさにこういうことを自分は卒論でも修論でも描きたかったという内容で、彼は実践者であり、私は理論的素描をしようとしたといったところだろう。
 あと、トークの面白さというかウィットな感じは半端ないなぁ。
 というより何より、こういった実験を教育学者出自ではないであろう彼がやっているというのも皮肉なものである。
 とはいえ、まさに社会が変わって行くことと教育が変わって行くことはある種両輪であるかのように連動していないといけないことだけは真理である。教育は全く変われて来ていないように思うけれど。

 私自身は社会の変化がいかなるものであり、その空間編成と時間編成がどのようなものになるかについてある程度予見を立て、それとの関連において総合的に教育をいかにプロジェクトして行くかをデザインしたいと思っている。
 だから卒論においては、都市という空間編成内において、近代的な計画的教育がどのように位置付け得るかを論じようとした。
 修士論文においては、情報化によって仮想的に拡張された社会空間において、近代的教育がどのように位置付け得るかを論じようとした。
 そして、その双方に共通するものは、計画された教育ではなく学習の環境の構築に対してしか、もはや我々が教育と呼ばれる営為に計画的にコミットできることはないのではないか?という結論であった。換言すれば場の提供やルールのアウトラインの提供までを行うことしかできず、その上で自由な発達に任せることしかできない、が、その放任こそがむしろ近代が本当にはなし得なかった自発的で自由な個人を作り出す逆説的可能性を持っているのではないか?と。(私は行動経済学などにも興味があるが、この辺りの言葉から行動経済学的だと想起された方も多いだろう)。

 ともあれ、私自身が理論的に考えていた一つの実践形態が既に20年近くも前から存在したことに驚きを感じつつ、この大いなる可能性に私も何かの形でコミットしたいものだなぁと感じた。
 私の場合、都市空間の設計などともセットでこのようなクラウド型学校をいかに位置付けるかも面白そうなどとも思うけれど、まずは彼が記述しているであろう論文や実験結果をあたることから始めたい。

 なんにせよ、いやーすごいなー、可能性あるなー、って思った。

【三島由紀夫】「果たし得ていない約束 — 私の中の二十五年」 /9-10 paragraph

 個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。
 肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てたことがなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル風にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、「万葉集」でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。

 三島由紀夫の「果し得ていない約束」と言えば、最終パラグラフの「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。……」以降が有名であろうが、上記引用箇所も非常に惹かれる部分であるように思う。
 「肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合」という箇所など、まさに面白い企てであったのだなと、強く思わされる部分であると同時に、なんとなく三島の作品を想起させるに足る含みを持っている。

 僕はこの部分の解釈には、時間性を変数として与えると以下のように考えられると思う。
 「肉体のはかなさと文学の強靭」においては、長い時間性をベースに解釈すれば、文学の時間を超えた存在可能性の強靭さとして、肉体の時間的な脆弱性、ひいては死に至り得るというはかなさとして、それぞれ解釈することができる。
 「文学のほのかさと肉体の剛毅」においては、即時・即物的な時間性をベースに解釈すれば、文学の伝達力は読者任せであるが故にほのかなものであるとして、他方で肉体的な交わりは直接的であるが故に剛毅なるものとして、それぞれ解釈することができる。

 個人的には、これらの文学と肉体の乖離を結合した一つの芸術が、(ライブに限定される)音楽であると思うのだが、現在は三島の音楽観や音楽遍歴について知っていないので、あまり論じることができない。音楽がある種そういった結合を体現している芸術であったとして、「作る者と作られる者との乖離」と三島が指摘する部分は乗り越えられえないのだが、とはいえ音楽とはリズムという共時間的肉体性と、文学的な精神性の表象としての旋律やメロディが融合したものであるように思える。

 ともあれ、辞世の句であったとも言われる三島の「果し得ていない約束」のこの部分から想定しうる上記のような解釈を仮説として持ちながら、三島の小説を読み返していきたいと思う。併せて、三島の音楽観についても知って行きたい。

【TED】スチュアート・ブランド: 絶滅種再生の夜明けとそれが意味すること

私的要約:

今回は割愛。感想の方でトークの概ねの趣旨もご理解頂けるものと考えます。

感想:

これは正直微妙な話題やなぁ。

ゲノムの塩基配列をすべて修復し、そこからクローン技術を利用して絶滅種を復活させることができるという、それほどまでの技術を人間がほぼ手中にしているという現状についてまず驚きを持って認識した。本当にそれがすぐそこまでの可能性として考えうる所まで来ているんだなと。

とはいえ、では、そういった復活を人為的に行うことにどこまで手放しで賛成することができるのか。
クリスが最後に質問でそれについて尋ねていたが、それへの話者の応答は特に納得いくものではなかっただろう。
「過去に人間の介入によって壊された生態系の回復だ」という理屈だけでは、当然納得はいかない(もちろん本気の応答が許される時間があれば、相当膨大な応答可能な考察があるだろう)。

とはいえ、いずれにしても、人間が陥りがちな人間を生態系の外部と見なす視座に立っていなければ、話者が推し進める再生プロジェクトは是認し得ない。
そもそもその視座に立つということをどこまで私たちは是認しうるのか。その検証には多大なる歴史的事実の検証が少なくとも必要だろう。
可能であれば、その部分に関する話者の更なる話を聞きたい。

生命倫理などを専門とする倫理学者の展開する一般論と、その議論にどのようなものがあるのかを、補論として押さえていかないと、何一つ踏み込んだ感想を述べる権利すら得られないなぁ。

【TED】ジェニファー・グランホルム「クリーン・エネルギー計画 — トップへの競争」

私的要約:

 冒頭で三つの問題について話すといっていたが、二つの問題と、二つ目の問題への話者の意見という形だったように思う。
 まずは一つ目の話題だが、アメリカ国内での雇用問題についてだった。
 アメリカ国内では、賃金の安価なメキシコなどへの工場移転が沢山あり、そのことによってコミュニティレベルでの失業者が発生するというような自体が当たり前に起こっている。それを政治的にどうにかすることができないのか。
 二つ目の問題として、環境技術についてアメリカは中国を筆頭に外国に遅れをとっている。ではこれを政治的にどうにかすることができないか?
 そしておそらく三点目の話題が、話者のこれらへの対応策が述べられ、オバマの教育の州単位の競争戦略に倣い、州単位で環境エネルギー問題への競争的な取り組みを促進する政策を取れないかというもの。
 非常に具体的に、東部州では海上風力発電について、北西州などでは地熱発電、南部州ではバイオ発電など、それぞれの州ごとに強みを伸ばしながら競争的にクリーンエネルギーの導入を行い、それによる雇用も創出できるだろうという話を展開している。
 そして、政策的にそれが難しくても、ボトムアップで企業が連携したりTEDの聴衆が協力し合うことでそういったパワーになることができれば素敵ではないかと訴えている。
 最後には、2030年までにクリーンエネルギー率80%を標榜しているし、国際的にその分野で遅れを取っていると皆が実感している状況で、その競争にコミットしないて静観するよりはコミットする方が良いでしょ?と。
 それが話者の訴えであった。

感想:

 アメリカがクリーンエネルギー関連では、太陽光パネル等は完全な輸入依存で他国に遅れを取っている意識を持っているらしいというのは新鮮だった。
 また、アメリカの話になると、人種の混ざり合った中で弱者としてのヒスパニックなどへの観点が他国の我々からすると強くなるが、よくよく考えてみれば日本が介護労働などをフィリピン人に委託したり、企業の工場を東南アジアに移動したりすることで、国内雇用力が空洞化するのと同様のことが、アメリカでも起こっているのは自明のことであったのだが、そこに着眼できてなかったことに気づけたのもある種新鮮。
 なんか最近はTPPにかこつけたアメリカの日本への不平等条約押し付け感とかに苛立ちばかり感じていたが、なんか少しアメリカに対し優しい気持ちになれた。
 とはいえ、許すまじきTPP秘密交渉TPP圧力感はあるが。

【三島由紀夫】「努力について」

このたび、百メートル十秒の世界記録が破られ、九秒九の新記録が出されたが、人間の努力は、というよりは、人間が動物に近づこうというスポーツマンの努力は、ついに人間の限界を突破して、九•九秒まで持ち込んだ観がある。では、この百メートルを九•九秒で走れる人間に、百メートルを十五秒で走ってみろと言ったら彼は楽であろうか。しかも、それをたった一度お座興に走るのではなく、彼が九•九秒で百メートル走ることを絶対に禁止し、十五秒以下で走ったならば牢屋にぶち込むぞと言ってやったら、どうなるであろうか。彼はおそらく、そのつらさに耐えかねて発狂するかもしれないのである。人間の能力の百パーセントを出しているときに、むしろ、人間はいきいきとしているという、不思議な性格を持っている。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずっと低いことしかやらされていないという拷問には、努力自体のつらさよりも、もっとおそろしいつらさがひそんでいる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いている結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強いるという、社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま使えるような戦争という機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががっちりとはめられ、このような世界で、十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るように強いられている。私は、ここらに、努力と建設ということだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもっとつらい、もっと苦しいものを強いる、社会の力というものを見出すのである。(三島由紀夫「努力について」『若きサムライのために』文春文庫, 1969.)

 「走ること」だけでなく、「走り方」の問題もあるだろう。
 ともあれ、宇野常寛の言うところの「決断主義」的な意味で、「走り方」はともかく「走ること」が要請されるような雰囲気が未だに根強く残る20代前半〜30代前半ロスジェネ界隈の年代層にとって、とりあえず「走ること」が要請され「走り方」などが不問にされている状況は存在しているだろう。
 「走り方」が不問にされるが故に、得意な「走り方」では10秒で走ることができる人間が15秒以下でとりあえず「走ること」に当て込まれているような状況は多々起こっているだろう。
 もちろん、若い起業家の増加などを象徴として取り上げれば、「本当は10秒で走ることができるのに」と言うような人間は言い訳がましい存在に見えることもあるかもしれない。しかしそれは、能力があるにも関わらずそれを発揮できない人間の言い分から退路を奪い、追いつめるだけの都合の良い労働力を必要とする強者の自己正当化の論理だろう。
 そんなことを思いながら、上記の三島の「努力について」の一説を読んだ。

 他方で三島自身、遅く走る人間にも同様にある一定の早さ(15秒)を求める社会の側面へも着目していたが。
 1969年出版のエッセイ集であることを意識して読まねばならないが、学生運動などが2000年頃のプチナショ的運動や2000年代のネット上での祭りのような現象と根源的には大してかわらない問題だと思うようになって来た最近の私には、指摘内容自体が古びているとは思わない。当時とコンテクストが変わっただけとしか思えない。

【TED】アマンダ・パーマー 「“お願い” するということ」

私的要約:

 路上でパフォーマーをやっている時代に話者は、「仕事をしろ」というような罵声を浴びせられてきた、彼女にとってそれが仕事であるにも関わらずだ。
 それは現在クラウドファンド的に音楽活動が成功をおさめられるようになった現在も変わっておらず、彼女には「お前にはみんなの援助を受ける資格がない」といったアンチなWebサイトが作られたりしている。
 しかし、彼女にとっては路上パフォーマンスを行っていた時の観客との触れ合いと同様、クラウドファンドで援助してくれるファンとの交流は、「信頼」をベースにした繋がりである。
 彼女はファンを信頼するが故に、自身を信頼してもらえるように最高のパフォーマンスをライブであれ無料の音楽配信であれ行う。そしてその彼女の信頼に応えるようにファンは彼女を助け、援助する。
 自己の恥を捨て、他者との「信頼」関係を構築するところにこそ、彼女のようなクラウドファンド型のアーティストが存在する所以である。

感想:

 一時期、ウェブ社会への論評において「信頼社会化」するというものがあった(社会心理学者の山岸俊男だったと思う)。実は私自身、彼の著作における「信頼社会」がどのような意味で使われていたかを把握するまできちんと目を通していないが、私自身もある意味でオープンで個人が露呈するようになったウェブ社会の肯定的可能性として、市民がより市民化する、未完のプロジェクトだった近代的市民が強化されるような作用が働くかもしれない、と感じたことがあった。その考えは、gov2.0系の思考とも相容れるものだろう。彼らは政体の変更よりもその先にある市民の市民性の向上のようなものをこそ目的としている。
 話は逸れたが、話者の言うようなあらゆる自分を恥を捨ててさらけ出すことで、逆に受け容れられ信頼関係を構築して行くということは難しく見える。少なくとも現在の私にはそのようなメンタリティは持てない。
 しかし、もしかするとデジタルネイティブ以降の世代は彼女のような考え方が当たり前になっているのではないか?というような感覚は拭いきれない。
 様々に遍在する自己を分人的に遍在させたまま、様々な人々と「信頼」関係を取り結ぶ。その時「信頼」という言葉が指し示すものが今私たちが考える「信頼」と全くの同義であるかはわからないけれど、肯定的なウェブ社会の一つの姿が彼女のあり方にはあるだろう。
 もちろん、岡田斗司夫や株式会社Genronなどを想起しなかったわけではないが、そのような可能性は有意な一つの可能性として期待と共に見つめて行きたいと思った。

【TED】エディス・ウィダー: いかにして巨大イカを見つけたか

私的要約:

大王イカのような巨大海洋生物の探索が、話者の知恵によって彼らを驚かせない探査方式を活用することでうまくいった。

これは非常にamagingな発見であるのだが、実のところ海には95%以上の未知の領域が残されている。

話者は、そういった未知のところにこそ新たな発想や発見が生まれる萌芽が潜んでいるにも関わらず、海洋探索への資金の集まりが悪いことを悔しがる。NASAのような海洋探索機関があればと訴えるのである。

感想:

大王イカすごいでかいしなんて鮮明に捉えられているだ!!!という驚きがまずある。

とはいえ、話者の主張のメインは、海洋探索には未知の領域があまりにも残されているにも関わらず、宇宙探索に比べあまりにも投じられている予算が少ないという事実への悲嘆である。

話者が言うようにイノベーションや新たな知見は探検や未知の領域にこそ存在する。確かに革命や革新的な出来事は常に辺境から生まれてくると言うのは歴史的に真と言って良いことだと思う。観点を変えて言うならばそれは例えば、近代民主主義の萌芽が当時は西欧の辺境でしかなかったアメリカにおいて独立戦争という形で起こったことなどからも例証できる。だからこそ我々は、ある種荒廃してしまった東日本の悲劇をも、逆に肯定的に、事故によって発生した革新を起こしやすい新たな辺境として肯定的に捉えることもできるはずだ。

話題は大きく逸れてしまったが、話者のような海洋探索を行う科学者にとって歯がゆい事態は起こっているのだろう。

宇宙ではない私たち地球の外部としての海洋探索へより注目が集まることを期待したい。