【三島由紀夫】「果たし得ていない約束 — 私の中の二十五年」 /9-10 paragraph

 個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。
 肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てたことがなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル風にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、「万葉集」でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。

 三島由紀夫の「果し得ていない約束」と言えば、最終パラグラフの「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。……」以降が有名であろうが、上記引用箇所も非常に惹かれる部分であるように思う。
 「肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合」という箇所など、まさに面白い企てであったのだなと、強く思わされる部分であると同時に、なんとなく三島の作品を想起させるに足る含みを持っている。

 僕はこの部分の解釈には、時間性を変数として与えると以下のように考えられると思う。
 「肉体のはかなさと文学の強靭」においては、長い時間性をベースに解釈すれば、文学の時間を超えた存在可能性の強靭さとして、肉体の時間的な脆弱性、ひいては死に至り得るというはかなさとして、それぞれ解釈することができる。
 「文学のほのかさと肉体の剛毅」においては、即時・即物的な時間性をベースに解釈すれば、文学の伝達力は読者任せであるが故にほのかなものであるとして、他方で肉体的な交わりは直接的であるが故に剛毅なるものとして、それぞれ解釈することができる。

 個人的には、これらの文学と肉体の乖離を結合した一つの芸術が、(ライブに限定される)音楽であると思うのだが、現在は三島の音楽観や音楽遍歴について知っていないので、あまり論じることができない。音楽がある種そういった結合を体現している芸術であったとして、「作る者と作られる者との乖離」と三島が指摘する部分は乗り越えられえないのだが、とはいえ音楽とはリズムという共時間的肉体性と、文学的な精神性の表象としての旋律やメロディが融合したものであるように思える。

 ともあれ、辞世の句であったとも言われる三島の「果し得ていない約束」のこの部分から想定しうる上記のような解釈を仮説として持ちながら、三島の小説を読み返していきたいと思う。併せて、三島の音楽観についても知って行きたい。

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