【TED】ジェニファー・グランホルム「クリーン・エネルギー計画 — トップへの競争」

私的要約:

 冒頭で三つの問題について話すといっていたが、二つの問題と、二つ目の問題への話者の意見という形だったように思う。
 まずは一つ目の話題だが、アメリカ国内での雇用問題についてだった。
 アメリカ国内では、賃金の安価なメキシコなどへの工場移転が沢山あり、そのことによってコミュニティレベルでの失業者が発生するというような自体が当たり前に起こっている。それを政治的にどうにかすることができないのか。
 二つ目の問題として、環境技術についてアメリカは中国を筆頭に外国に遅れをとっている。ではこれを政治的にどうにかすることができないか?
 そしておそらく三点目の話題が、話者のこれらへの対応策が述べられ、オバマの教育の州単位の競争戦略に倣い、州単位で環境エネルギー問題への競争的な取り組みを促進する政策を取れないかというもの。
 非常に具体的に、東部州では海上風力発電について、北西州などでは地熱発電、南部州ではバイオ発電など、それぞれの州ごとに強みを伸ばしながら競争的にクリーンエネルギーの導入を行い、それによる雇用も創出できるだろうという話を展開している。
 そして、政策的にそれが難しくても、ボトムアップで企業が連携したりTEDの聴衆が協力し合うことでそういったパワーになることができれば素敵ではないかと訴えている。
 最後には、2030年までにクリーンエネルギー率80%を標榜しているし、国際的にその分野で遅れを取っていると皆が実感している状況で、その競争にコミットしないて静観するよりはコミットする方が良いでしょ?と。
 それが話者の訴えであった。

感想:

 アメリカがクリーンエネルギー関連では、太陽光パネル等は完全な輸入依存で他国に遅れを取っている意識を持っているらしいというのは新鮮だった。
 また、アメリカの話になると、人種の混ざり合った中で弱者としてのヒスパニックなどへの観点が他国の我々からすると強くなるが、よくよく考えてみれば日本が介護労働などをフィリピン人に委託したり、企業の工場を東南アジアに移動したりすることで、国内雇用力が空洞化するのと同様のことが、アメリカでも起こっているのは自明のことであったのだが、そこに着眼できてなかったことに気づけたのもある種新鮮。
 なんか最近はTPPにかこつけたアメリカの日本への不平等条約押し付け感とかに苛立ちばかり感じていたが、なんか少しアメリカに対し優しい気持ちになれた。
 とはいえ、許すまじきTPP秘密交渉TPP圧力感はあるが。

【三島由紀夫】「努力について」

このたび、百メートル十秒の世界記録が破られ、九秒九の新記録が出されたが、人間の努力は、というよりは、人間が動物に近づこうというスポーツマンの努力は、ついに人間の限界を突破して、九•九秒まで持ち込んだ観がある。では、この百メートルを九•九秒で走れる人間に、百メートルを十五秒で走ってみろと言ったら彼は楽であろうか。しかも、それをたった一度お座興に走るのではなく、彼が九•九秒で百メートル走ることを絶対に禁止し、十五秒以下で走ったならば牢屋にぶち込むぞと言ってやったら、どうなるであろうか。彼はおそらく、そのつらさに耐えかねて発狂するかもしれないのである。人間の能力の百パーセントを出しているときに、むしろ、人間はいきいきとしているという、不思議な性格を持っている。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずっと低いことしかやらされていないという拷問には、努力自体のつらさよりも、もっとおそろしいつらさがひそんでいる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いている結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強いるという、社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま使えるような戦争という機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががっちりとはめられ、このような世界で、十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るように強いられている。私は、ここらに、努力と建設ということだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもっとつらい、もっと苦しいものを強いる、社会の力というものを見出すのである。(三島由紀夫「努力について」『若きサムライのために』文春文庫, 1969.)

 「走ること」だけでなく、「走り方」の問題もあるだろう。
 ともあれ、宇野常寛の言うところの「決断主義」的な意味で、「走り方」はともかく「走ること」が要請されるような雰囲気が未だに根強く残る20代前半〜30代前半ロスジェネ界隈の年代層にとって、とりあえず「走ること」が要請され「走り方」などが不問にされている状況は存在しているだろう。
 「走り方」が不問にされるが故に、得意な「走り方」では10秒で走ることができる人間が15秒以下でとりあえず「走ること」に当て込まれているような状況は多々起こっているだろう。
 もちろん、若い起業家の増加などを象徴として取り上げれば、「本当は10秒で走ることができるのに」と言うような人間は言い訳がましい存在に見えることもあるかもしれない。しかしそれは、能力があるにも関わらずそれを発揮できない人間の言い分から退路を奪い、追いつめるだけの都合の良い労働力を必要とする強者の自己正当化の論理だろう。
 そんなことを思いながら、上記の三島の「努力について」の一説を読んだ。

 他方で三島自身、遅く走る人間にも同様にある一定の早さ(15秒)を求める社会の側面へも着目していたが。
 1969年出版のエッセイ集であることを意識して読まねばならないが、学生運動などが2000年頃のプチナショ的運動や2000年代のネット上での祭りのような現象と根源的には大してかわらない問題だと思うようになって来た最近の私には、指摘内容自体が古びているとは思わない。当時とコンテクストが変わっただけとしか思えない。

【TED】アマンダ・パーマー 「“お願い” するということ」

私的要約:

 路上でパフォーマーをやっている時代に話者は、「仕事をしろ」というような罵声を浴びせられてきた、彼女にとってそれが仕事であるにも関わらずだ。
 それは現在クラウドファンド的に音楽活動が成功をおさめられるようになった現在も変わっておらず、彼女には「お前にはみんなの援助を受ける資格がない」といったアンチなWebサイトが作られたりしている。
 しかし、彼女にとっては路上パフォーマンスを行っていた時の観客との触れ合いと同様、クラウドファンドで援助してくれるファンとの交流は、「信頼」をベースにした繋がりである。
 彼女はファンを信頼するが故に、自身を信頼してもらえるように最高のパフォーマンスをライブであれ無料の音楽配信であれ行う。そしてその彼女の信頼に応えるようにファンは彼女を助け、援助する。
 自己の恥を捨て、他者との「信頼」関係を構築するところにこそ、彼女のようなクラウドファンド型のアーティストが存在する所以である。

感想:

 一時期、ウェブ社会への論評において「信頼社会化」するというものがあった(社会心理学者の山岸俊男だったと思う)。実は私自身、彼の著作における「信頼社会」がどのような意味で使われていたかを把握するまできちんと目を通していないが、私自身もある意味でオープンで個人が露呈するようになったウェブ社会の肯定的可能性として、市民がより市民化する、未完のプロジェクトだった近代的市民が強化されるような作用が働くかもしれない、と感じたことがあった。その考えは、gov2.0系の思考とも相容れるものだろう。彼らは政体の変更よりもその先にある市民の市民性の向上のようなものをこそ目的としている。
 話は逸れたが、話者の言うようなあらゆる自分を恥を捨ててさらけ出すことで、逆に受け容れられ信頼関係を構築して行くということは難しく見える。少なくとも現在の私にはそのようなメンタリティは持てない。
 しかし、もしかするとデジタルネイティブ以降の世代は彼女のような考え方が当たり前になっているのではないか?というような感覚は拭いきれない。
 様々に遍在する自己を分人的に遍在させたまま、様々な人々と「信頼」関係を取り結ぶ。その時「信頼」という言葉が指し示すものが今私たちが考える「信頼」と全くの同義であるかはわからないけれど、肯定的なウェブ社会の一つの姿が彼女のあり方にはあるだろう。
 もちろん、岡田斗司夫や株式会社Genronなどを想起しなかったわけではないが、そのような可能性は有意な一つの可能性として期待と共に見つめて行きたいと思った。

【TED】エディス・ウィダー: いかにして巨大イカを見つけたか

私的要約:

大王イカのような巨大海洋生物の探索が、話者の知恵によって彼らを驚かせない探査方式を活用することでうまくいった。

これは非常にamagingな発見であるのだが、実のところ海には95%以上の未知の領域が残されている。

話者は、そういった未知のところにこそ新たな発想や発見が生まれる萌芽が潜んでいるにも関わらず、海洋探索への資金の集まりが悪いことを悔しがる。NASAのような海洋探索機関があればと訴えるのである。

感想:

大王イカすごいでかいしなんて鮮明に捉えられているだ!!!という驚きがまずある。

とはいえ、話者の主張のメインは、海洋探索には未知の領域があまりにも残されているにも関わらず、宇宙探索に比べあまりにも投じられている予算が少ないという事実への悲嘆である。

話者が言うようにイノベーションや新たな知見は探検や未知の領域にこそ存在する。確かに革命や革新的な出来事は常に辺境から生まれてくると言うのは歴史的に真と言って良いことだと思う。観点を変えて言うならばそれは例えば、近代民主主義の萌芽が当時は西欧の辺境でしかなかったアメリカにおいて独立戦争という形で起こったことなどからも例証できる。だからこそ我々は、ある種荒廃してしまった東日本の悲劇をも、逆に肯定的に、事故によって発生した革新を起こしやすい新たな辺境として肯定的に捉えることもできるはずだ。

話題は大きく逸れてしまったが、話者のような海洋探索を行う科学者にとって歯がゆい事態は起こっているのだろう。

宇宙ではない私たち地球の外部としての海洋探索へより注目が集まることを期待したい。

【TED】カケニャ・ンタイヤ : 学校を求めた少女

私的要約:

マサイ出身の女性である話者が、高等教育を受けられるまでに至り、国連で仕事をしながら故郷に女性専用の学校施設を作るに至った話。

彼女の生まれ育った地域では女性は成人の通過儀礼としての割礼で多くが命を落としたり、女性に基本的な人権すら認められていないような状況が日常的な状況のままである。

しかし、彼女がアメリカに留学できるにまで至り、故郷のそういった状況を変革し、徐々に女性の人生選択の幅を広げる活動をするに至っている。

彼女が訴えるのは、私たちがまず行動することで、世界は一つずつでも変わって行き、私たちの子ども、孫の世代のために少しずつでも平和な世界を作って行こうというメッセージだった。

感想:

私たちはやはり恵まれているし、それ故に何かをやろうと思えばやれる立場にある。そのようなことを思い出させてくれる意味で見る価値があった。

それにしてもマサイの一部の部族では未だに女性式割礼の儀式があり、それにより命を落とす女性が沢山居るという事実は衝撃的である。しかも、ケニアの法として認められていないにも関わらず。結局のところ国家がそれを捕捉できていないのだろう。

アフリカ映画祭などを主催する団体(シネマアフリカ)の代表の方が語っていたように、アフリカ映画ではやはり未だに呪術やおまじないといったものがありふれたもの(むしろ主流)であると語っていたけれど、映画などの文化が未だ入り込まない位の田舎なエリアを想定するとやはりそういった通過儀礼は今もあるんだなぁと納得する面もある。とはいえ、通過儀礼などを前時代的負の遺産などと決めてかかっているわけではないが。

とはいえ、アフリカ映画の中心地はナイジェリアの首都のように栄えている地域だったりするので、マサイの話と安易に繋げてはいけないが、
呪術や慣例としての命がけの通過儀礼が当たり前のような地域のその地域性を否定せずに、それでもやはり変えねばならないことは変えて行くこと。
さじ加減は難しいが、小さくとも行動することの重要性を訴えかけられる話だった。

【TED】デイビッド・アンダーソン:あなたの脳はただの化学物質の袋ではない

私的要約:

脳の疾患に対する投薬は、現在の状況だと、あらゆる疾患に対してドーパミンを投与するといったような大雑把なものになっているが、ショウジョウバエに対する実験からもしかするとそれは違うのではないかという仮説が生まれている。

ショウジョウバエの場合、多動性疾患や学習疾患の個体は存在するのだが、それぞれの疾患に対してドーパミン受容体をどこに復元するかによって疾患の回復状況が違い、二つの疾患ではそれぞれ異なる部位のドーパミン受容体が作用している。

ショウジョウバエの事例がそのまま人間に当てはまるとは言えないが、人間の精神疾患に対してもそれぞれの疾患に対しそれぞれ異なる部位への異なる投薬や作用を行わせるような精緻な治療が必要かもしれない。

感想:

ハエすげー。

けど、ハエの研究でそういったことがわかってるんやったら、少なくとも人間においても同様の状況が起こり得るという推測は納得が行く。
研究の進展を望むばかり。