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【三島由紀夫】「努力について」

このたび、百メートル十秒の世界記録が破られ、九秒九の新記録が出されたが、人間の努力は、というよりは、人間が動物に近づこうというスポーツマンの努力は、ついに人間の限界を突破して、九•九秒まで持ち込んだ観がある。では、この百メートルを九•九秒で走れる人間に、百メートルを十五秒で走ってみろと言ったら彼は楽であろうか。しかも、それをたった一度お座興に走るのではなく、彼が九•九秒で百メートル走ることを絶対に禁止し、十五秒以下で走ったならば牢屋にぶち込むぞと言ってやったら、どうなるであろうか。彼はおそらく、そのつらさに耐えかねて発狂するかもしれないのである。人間の能力の百パーセントを出しているときに、むしろ、人間はいきいきとしているという、不思議な性格を持っている。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずっと低いことしかやらされていないという拷問には、努力自体のつらさよりも、もっとおそろしいつらさがひそんでいる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いている結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強いるという、社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま使えるような戦争という機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががっちりとはめられ、このような世界で、十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るように強いられている。私は、ここらに、努力と建設ということだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもっとつらい、もっと苦しいものを強いる、社会の力というものを見出すのである。(三島由紀夫「努力について」『若きサムライのために』文春文庫, 1969.)

 「走ること」だけでなく、「走り方」の問題もあるだろう。
 ともあれ、宇野常寛の言うところの「決断主義」的な意味で、「走り方」はともかく「走ること」が要請されるような雰囲気が未だに根強く残る20代前半〜30代前半ロスジェネ界隈の年代層にとって、とりあえず「走ること」が要請され「走り方」などが不問にされている状況は存在しているだろう。
 「走り方」が不問にされるが故に、得意な「走り方」では10秒で走ることができる人間が15秒以下でとりあえず「走ること」に当て込まれているような状況は多々起こっているだろう。
 もちろん、若い起業家の増加などを象徴として取り上げれば、「本当は10秒で走ることができるのに」と言うような人間は言い訳がましい存在に見えることもあるかもしれない。しかしそれは、能力があるにも関わらずそれを発揮できない人間の言い分から退路を奪い、追いつめるだけの都合の良い労働力を必要とする強者の自己正当化の論理だろう。
 そんなことを思いながら、上記の三島の「努力について」の一説を読んだ。

 他方で三島自身、遅く走る人間にも同様にある一定の早さ(15秒)を求める社会の側面へも着目していたが。
 1969年出版のエッセイ集であることを意識して読まねばならないが、学生運動などが2000年頃のプチナショ的運動や2000年代のネット上での祭りのような現象と根源的には大してかわらない問題だと思うようになって来た最近の私には、指摘内容自体が古びているとは思わない。当時とコンテクストが変わっただけとしか思えない。